やる気がない時にこそやる気基軸をつくれ

 

僕もかつてはいつぞやの「俺はまだ本気出してないだけ」という映画タイトルをそのまま地で行くようなスタイルで生きてきた。僕はまだ本気出してないだけなのだ、うまくいかないのは本気だしてないだけだからなのだ、だから今という時間は、今日という日は、明日からの本気生活のための休息につかおう、いや、明日は夕方からサッカー日本代表の試合があるからそれを観終わってから、いや、そんな夜からじゃたとえ集中したとしても眠くなってしまったらだめだ、じゃあ、やっぱりその次の次の日は特に予定もないから、王将でたらふく餃子食ってからがんばろう.....がんばろう.....うん、そうしよう、うん、うん、それでじっくりと英気を養ってから行動すればいいし、そうしたいし、そうやっていつか本気になれば...いつかは必ず何者かになれるはず...がんばればできる子なのだ僕は...
 
そう思って生きてきたら30年近く経ってた。
 
そして、そう思って生きてきてあとに残ったものは絶望...と、貧乏。あれ?なんか違う。僕はもっとできる人だったはず。なんでこんなことになってるんだよ。おっかしいな、って。
 
10代の頃に夢見てた、まさに夢だったわけなんだけど、その光景とはまるで違う人生を歩んでる。なにこれ。ぜんっぜん違うじゃん。って、いや、わかってるよ。わかってますよ、わかってるんだ自分でも。これも全部自分が悪い。すべて「明日...」「明日からやれば...」「今じゃない...」って、言い訳してきたからこうなってるってことはわかってる。でも、わかっててもできない自分がいた。でもイメージする将来の自分像は「今」の自分じゃない。
 
この現実と将来像とが年を経るごとに見事に乖離していくさまにまったくついていけていない自分がいた。何もやっていないとはいっても一応は生きているし、アルバイトでもなんでも一応は人とも関わっているし、社会とも関わってる、本もたまには読む、時々は美術館にだって足を運んで偉大な芸術家が生み出してきた作品から理屈だけじゃない「生き方」を模索することもあった。だけど、変わらない。あと、一応は親元からも離れて少ない収入の中から家賃、光熱費、食費、交際費、通信費、書籍代も払って、自立っぽい生活もしてるのに。一応は...一応は...一応は... 一応は、多少は、自分もがんばってるはずなのに... 何がいけないのか。
 
悩みや迷いは深くなる一方。時間がないからできない。こんなに良いアイデアはあるのに行動が伴わない。これでも明るく生きてるつもりなのに。
 
自らと向き合えば向き合うほどに、ダメになる。ダメになってる気がする。いや、これはもうダメだろう。
 
って、気づいたのが30代。おっせーわ。おっせーよ。死んでしまえ。お前なんかいらねーわ。ばーか。ばーか。ばーか。ぼーけ。ぼーけ。って、ヤフコメにえっらそうにコメントしてたこと思い出した。こういうのって結局自らに吠えてるんだろうな、って勝手に心理学の側面から考えたこともあった。本当にできてる人だったらもっと冷静になれるはずなんだろうし、人の行動、言動を見て腹が立つってことは結局自分の映し鏡の心理にはまってるだけで、それに気付きもしないで暴言垂れてたって、できる人気取ってたって、正論並べ立てたって、「おまいう」で終わる。改めて自分のダメさを気付かされるだけなのだ。
 
誰かのために、誰かの人生のために、って思ってるわけじゃないからグダグダと長い前置き書いたけど、そういう自分と離れていく、変えていくための時間が僕には30年近くが必要だったのかと、今ちょうど朝の5時、ガストの片すみの席でコーヒーすすりながらけっこう真面目に書いてる。
 
そろそろ本題にはいろっか。
 

やる気が出ないときにでもできることをやれる少しの力

 
さっきも書いたけど、やる気ってものを模索して、「明日から」とか「いつかやる」とか、そういうこと言ってる間は絶対に何も生み出すことはできないし、成功もしない。人によってはそれでうまくいってる人もいるかもってことも考えられるかもしれないけど、たぶんそれはない。いや、絶対にない。そうだね、断言してもいい。もしそんな人がいるならそれはスケジュール管理が相当うまい。明日やらないといけないから明日やるっていってるだけであって、それは僕の言う、言ってた「明日から」「いつかやる」とかいう話とはそれこそ似て非なるものであって、簡単に言えば明日からちゃんとできるっていうスケジュール管理の話だし、明日からやるっていって僕みたいに言い訳してるのとは雲泥の差なのだ。
 
なにかを「やる」っていうのには、たしかに「やる気」が必要なんだけど、そのやる気っていうのはこれがまた厄介で、僕のように頭の悪い人間はその意味をいつまでも履き違えて時間を無駄にしてしまう。でもね、30ちかくにもなってやっとわかったんだよ、やる気の意味が。
 
そのやる気っていうのはさ、みなぎるパワーのようなものをいうのではなくて、「やる気がでないときにでもできることをやれる少しの力」のことを言うんだってことがやっと分かったんだ。それに気づけたとき、今までの「明日から本気になる」っていう感覚から離れていける自分がいたよ。
 
もっといえば、どこに軸を置くかっていうこと。確かに絵を描く作業のようにして無性に何かを生み出したい時とか、取り組みたいときとか、本を貪り読みたくなることってある。ほとばしるエネルギー。うおおおおお!って内側から湧き出る、溢れ出す、魂、闘魂!みたいなやつが。でもね、それを軸にして、それが出てきた時を、自分の「やる気」にしたり、「行動の軸」にしてしまうと、絶対に続かない。
 
人生は継続することにある。僕はそう思う。仕事でもブログでもなんでも。と言った矢先にあれなんだけどこのブログは続けるつもりはない。ただの吐け口、アウトプット用、あ、そういえばそれ言って思い出したけど、「女は男の性の吐け口じゃないのよっ!!!」っていう名台詞があったね。愛という名のもとに。1992年。ふっるー。当時、僕は小学生だったんだけど、上の兄弟が7つ離れてたから一緒になって見てた。そういうのあるよね。
 
話を戻すけど、「やる気がでないときにでもできることをやれる少しの力」っていうのは、つまりは継続性も兼ねてる。体から溢れ出す、みなぎるパワーを頼りに行動したり、軸にしたりしてたのではまったくと言って良いほどに続かない。たとえばアルバイトだって、めんどくせーって思いながら行くよね。そのめんどくせーっていうのは要するにやる気がない状態。でもその状態でも行くよね、迷惑かけちゃいけないとか、家賃払えないし、とかいろんな理由つけて。でも、結局はそれがお給料っていう最終的な結果になって返ってきてるし、もちろんダラダラとやるなよ仕事だろっていう部分もあるんだけど、そのことについてはまた次の機会にでも話すとして、今はその結果の話をする。で、そのやる気のない状態こそが継続性ってものに気づかないうちになってる。まあ、さっきも言ったようにアルバイトにしろ正社員にしろ、ダラダラとやってて継続してる、できてる、っていうのは大きな声で言えたものじゃないけど、それくらいラフに考えて、今度はアルバイトとかじゃなくて、自分の本来やりたかったものに置き換えて、つまり「人生」っていう風に考えてみた途端に、まったく継続性が期待できない「やる気」ってものに頼り出す。それこそアルバイトじゃないけど楽にラフにやればいいものを。良いものをつくろうとか、最高傑作を生み出そうとか、なんていうのかなたったひとつの行動に対して大事にしすぎというのか、つまりは完璧なものを追いかけすぎてしまったりして、急に「人」が変わったようになる。
 
僕は今はフリーランスとして、まあ、独学なんで、偉そうなこと言えないんだけど、一応デザインの仕事とかしてる。事業内容としては絵を描くこと、グラフィックっていうのかな、そういうのを基盤にして、服のデザインをしたり、サイトデザインしたり、あとはスタートアップ、少ない資金で新しい事業を興してみたりして。多角的にやってる。
 
それができてるのも、やっぱりこの「やる気」っていう言葉の中身をクリアーにすることができたことが大きいと思う。
 
ある日、朝の3時に目覚めた時にこんな風に思ったことがあった。「うえっ、こんな時間かよ。ねむ。もうちょっと寝よ。本には朝活をすべしって書いてあったけど、ぜんっぜんやる気でないし、今日はそんなつもりはないし、予定にないし、とりあえずそういうことはやる気がある時にやるからもうちょっと寝よ」って。でも、その時はなぜかそのあとも自問自答するみたいにして布団の中でグダグダやって、結局は思い直して起きてみた。で、部屋に居たらダラダラなりそうだったから3時でもやってるガストに行った。ドリンクバーで長居。やることはとりあえず読書、くらいしかない。仕事なんてないし。だからこんな行動したってたぶん何の意味もないだろうけどね、別に良いよ、何かが起こるなんてはなから思ってないしどうせ、って。
 
だけど、これが意味があった。この感覚が自分のやる気の、つまり「行動の軸」にすることができるとしたらすごく楽かもしれないってことを、本気でその時に思った。考えついた。遅いか。遅いだろ。そう、今更って感じだった。ほんと。
 
ひとことで言えば「とりあえず行動する」ってことなんだけど。その行動するっていう感覚をもっと楽にする、結果を求めない、完璧な行動を求めない、これをその行動にちゃんと理解させながらやっていくと案外ものごとというのはちゃんと進んでいくものなんだなってことがわかった。
 
何かを進めていくのに、最初から大きな力はいらないってこと。しんどくても、疲れてても、それこそ以前のような「やる気」なんかなくてもいい、めんどくせーって思いながらでも動き出せる「ほんの少しの力」さえあれば、その一歩になるし繋がっていく。それがわかった途端に心も軽くなった。
 
 

適当に生きるという意味

僕はこれから適当に生きていこうと思う。
 
そう言うと、そんなやつに仕事は頼めないって思われるかもしれないけど、いわゆる仕事に対して情熱をかけないと言ってるわけじゃない。適当に、っていうのは初速のこと。前項でも書いたように「やる気」の本来の意味や軸をちゃんと理解して行動に移すことができる人であれば言わずもがなってやつかもしれないけど、つまりアウトプットの作業にとって大切なことは「完璧な計画」よりも考えから行動へのプロセスの「スピード」だってこと。
 
そのスピードを担保するためには完璧であってはいけない。完璧であればあるほど時間がかかると同時に、結局はそれが完成度の低下に陥る危険性を持っている場合もあり、その一方で見切り発車でも起こされた行動には必然的に継続性が求められるし、そして修正と進化を繰り返す中で完成度を高めることにも繋がっていくのだから、はなから完璧なものを求める必要がない。
 
僕は今まで完璧主義だった。ほんと、これがまた厄介なやつ。要するに、以前の僕のような完璧主義者こそ、実は完璧に、つまり完遂したことがなかったりするんだ。完遂できない完璧主義者ってそれ一体何者だって話です。それこそ、見切り発車でも完遂できる人間の方が本来は「完璧主義者」と言ってしかるべきなのではないだろうかと思う。
 
そう考え直すことができたとき、「適当さ」っていうのはすごく大切なことなんだとつくづく思った。
 
仕事もそうなんだけど、生きることはそんなに大変なことはないよきっと。いや、大変は大変なんだけど、その大変なことっていうのは「人」であったり「お金」であったりして、自分そのものではないことが多い。だからせめて自分自身の気持ちの持ち方くらいは楽でありたい。「適当」に考えたこと、思いついたことを「適当」にアウトプットしてみて、それが仕事になりそうなのかどうなのかを「適当」な場所で考えてみる。そんな風にして楽に楽にやれることにこそ継続できる要素がつまっていて、気づいたら形になってたりするものだ。